幸せな旅立ち

なんとめでたいご臨終  小笠原文雄

ある日、栗田さん(76歳 男性 胃がん)の往診に行くと、奥さんがこんなことを言いました。
「先生、私はパニック障害だから、夫が亡くなる姿を見たら、二度と立ち直れません。死にそうになったら、入院してもらいたいんです」
「ご主人は奥さんの目の前では亡くならないから大丈夫ですよ」
「そうなんですか。それなら、あなた、最期まで家にいてもいいからね」

その1か月後、黒田さんはいつ亡くなるかわからない状態になりました。
息子さんが心配して私に尋ねます。
「先生、親父はもう死にそうですよね。でも僕、これから東京で講演なんです」
「お父さんは、あなたの講演を聞いたことがないんでしょう。息子の晴れ姿を見たいと思ったら、講演中に亡くなって、あの世に行く途中で講演を聞きに行くんじゃないの。父親が見てると思ってがんばりなさい」
「わかりました。一生懸命講演してきます」

しかし栗田さんは、息子さんの講演を聞きにはいきませんでした。
亡くなったのは翌朝5時のこと。
目覚めた奥さんが夫の様子を見に行くと、栗田さんは冷たくなっていました。

娘さんはこう言いました。
「きっと母と子どもたち3人が、川の字になって寝ているのを見て、懐かしみながら、安心してあの世へ行ったと思います。誰も見ていないときに旅立ってくれたからこそ、母も救われたと思います。だから本当にうれしいんです」

死の瞬間に立ち会えなかったからと責める必要はありません。
どんな時に旅立たれたとしても、それがその人にとっての旅立ちの時なんですから、見送る側の心の持ち方1つで、遺された家族にとっても本人にとっても幸せな旅立ちになるのです。