寿命を迎えつつあるとき医療行為は無駄で弊害

寿命が尽きる2年前 日下部羊

医者が延命治療をするのは、わずかでも助かる見込みがあるからです。
それでも助からなかった場合に、悲惨な状態になるのです。
それがどういう状態かというと、人工呼吸器につながれ、点滴や輸血や中心静脈栄養のルートをつけられ、導尿カテーテルを入れられ、心電図計や酸素飽和度モニターを装着されて、まるで器械に生かされているようになります。
当然患者さんは意識がなく、全身がむくんで手足が丸太のように腫れ、髪の毛は抜けて、黄疸で皮膚は文字通り土気色になり、顔の相が変わって、口や鼻だけでなく目や乳首からも出血し、肛門からは下血でコールタールのような便があふれ、生きたまま身体が腐っていくようにもなって、病室は悪臭に満たされます。

延命治療をやめると、いわゆる尊厳死になって、医者は訴えらたら殺人の容疑で逮捕されることになります。

80代の女性に「私はチューブを一杯つけられて、器械に生かされるようなことになりたくないんですが、どうすればいいですか」と聞かれて、こう答えました。
「それならいい方法があります。病院に行かなければいいんです」
冗談のように聞こえますが、医療は「死」に対しては無力です。
むしろ弊害が多い。
患者さんが寿命を迎えつつあるとき、医療行為はすべて無駄で有害です。
点滴をしても、含まれている薬剤やカロリーは吸収されず、単に血液を水で薄めているだけです。
入れすぎた水は肺にしみ出して、患者さんは溺死の状態になります。

いざというとき、慌てずに救急車を呼ばずにいるためには、普段から心の準備が必要です。
はっきり言って、救急車を呼ぶのは家族が安心したいがためです。
その心の準備とは、すなわち寿命を受け入れるという気持ちでしょう。