限りある方が慈しみが湧いてくる

寿命が尽きる2年前 日下部羊

芥川龍之介の「芋粥」という短編は、芋粥が大好物の下っ端役人が、ひょんなことから芋粥をもらえる状況になったのに、大量に用意された芋粥を見て、ほとんど食べられなくなるという話しです。
大好物ならいくら目の前に大量に用意されても、食べたくなくなるなんてことはあり得ないと思うかもしれません。
しかし、ある程度大人になるとこの小説の意図が分かるようになります。

私はフキノトウの天ぷらが大好きなのですが、知人からたくさんのフキノトウをもらい、全部天ぷらにしました。
すると4つめくらいまでは、おいしく食べましたが、次第に口が苦くなり、6つめくらいでギブアップしてしまいました。
好きなものでも限りある方が有難みも分かるし、慈しみも沸くことに気づいたのです。

命も同じです。
いつまでも生きたいと思うのは、子どものころに好きなものならいくらでも食べられると思ったのと同じで、実際に長生きをしていないから感じることでしょう。
成熟した大人なら生き過ぎた時の不如意を考え、必ずやってくる死に意識を向けて準備するのではないでしょうか。

死が迫ったとき医療に頼るのは誤りと書いたのは、一旦死のスイッチが入ったら、どんなに医療を施してもそれを止めることはできないからです。
家族はなんとかそれを止めようとして、点滴や酸素マスクや強心剤などを求めますが、無駄な抵抗をすればするほど本人は苦しみます。

あるがままが一番楽で穏やかということなのですが、心の準備がないとなかなか受け入れることはできないようです。