野口英世 2

さらに母は、荷物を背負って二十キロの山道を運ぶ仕事に就いた。
賃金が他の仕事の二倍近くあったからだ。
それだけに重労働だった。
荷物を背負っての峠の上り下りは容易ではなかった。
しかしその仕事は、英世が高等小学校を卒業するまで十年間も続いた。
英世は、母の願いによく応えた。
苦労の末、医師開業試験に合格したのである。

医師免許を取得すれば、息子は故郷に戻ってきてくれる、それまでは歯を食いしばっても頑張ろう、母はそう思っていたに違いない。
しかし英世は、伝染病の研究に情熱を燃やし、アメリカに渡ってしまった。
アメリカでも英世は、人の何倍も努力し、ついに人類を苦しめている病原菌を発見した。
世界中から称賛される研究者になっていく。
しかし有名になればなるほど、母の待つ日本は遠くなるばかり。

母は英世が渡米して十三年目の明治四十五年、英世に初めて手紙を書いた。
文字を書けなかった母が、カナを習って時間をかけて書いたものである。
その中には「どうか早く来て下され。早く来て下され!・・・・」という訴えが何行にもわたって書かれていた。

研究は大切かもしれない、が、英世の母を見かねた友人から、母親の写真が英世の元に送られてきた。
英世は写真を一目見て、大きな衝撃を受けた。
記憶の中の母は、男勝りの仕事もこなす強い人であった。
だが十五年たって、写真に写っている母は、背を丸くしてやせ細り、小さくなって、髪の毛も真っ白になっていた。
「ああ、母に申し訳ない! もう研究などと言っていられない!」
英世は、即刻帰国を決断し、母の元へ急いだ。