生きるということ

スリランカの仏教長老の話しから

生きるとは、そもそも大したことではありません。
ご飯を食べて、トイレに行って、仕事をして、お風呂に入って、寝る。
毎日、毎日、それを繰り返していくだけです。
そして毎日、いろいろな事が、自分の希望とは無関係に起こります。

生命の根本から見ると、個人の失敗は痛くもかゆくもありません。
個人が失敗したところで、世界は何も変わりません。
生きている限り、しなければいけないことが次から次へとやってきます。
目の前に現れるやるべきことを、一つ一つやっていけばいいのです。
喉が乾いたら水を飲みます。
水を飲めば、次にやらなくてはいけないことが現れます。
生きるとは、その果てしない連続です。

不安とは、現実が変わったら困る、期待していた状況が変わったら困る、そんな所から生まれます。
不安は、追いかけければ増長します。
だから不安は放っておけばいいのです。
現実が変わってほしくないという気持ちが不安の原因ですから、現実が変わっていくことを、「世界は無常なのだから仕方がない」のだと気づき、認めればいいのです。

諦めることは、捨てることです。
子どもは成長とともに、哺乳瓶、三輪車というように、様々なものを捨てていきます。
捨てるものは、物だけではありません。
精神的なものも、そうです。
古い考え方を捨てて、子供は成長していきます。
大人だってそうです。
仕事でも生活でも、いろいろなものを捨てて前に進んでいきます。
何かを諦めないと、何かを得ることはできないのです。
諦めることは、何かを失うことではなく、成長するために必要なことなのです。