何でもない日常に悟りの道が・・

毎朝同じ時間に起き、満員電車で出勤し、毎日同じような業務を終えると、同じ仲間と飲んで、また満員電車に揺られ帰ってくる。
朝起きて、食事の支度をして夫と子供を送り出し、掃除と洗濯をして、昼は仕事、帰宅後夕食に準備、そんな毎日。
来る日も来る日も同じ生活の繰り返し、生きているという実感もなく、私はこのまま老いていくのだろうか。

そんな何でもない日常にこそ、人生の「悟り」を得る機会が潜んでいる、というのが曹洞宗の宗祖である道元です。

道元は、中国の宋に留学します。
その時道元は、修行し続ける以外に悟りを得る方法はないと固く信じ、ひたすら座禅に打ち込み、ストイックに精進していました。
そんな夏の日、老いた料理担当の典座僧(テンゾソウ)がシイタケを干しているのに遭遇しました。
老齢の典座僧、真夏の日差しに照らされて、苦しそうに一心不乱にシイタケを干しています。
道元が思わず「どうして、わざわざあなたのような高僧がそんな雑事をおやりになっているのですか。他のお付きの者にやらせればいいではありませんか」と話しかけました。
すると老典座僧は「他の者にやらせたのでは意味がありませんから」と応じ、また炎天下で黙々とシイタケを干し始めました。
「仰ることはもっともですが、こんな暑い時におやりにならなくても・・・」と、道元が尋ねると「今やらなくて、いつやるのでしょう」と答えたといいます。

この出来事をきっかけに、道元は自分の悟りの考え方に誤りがあるのでは、と思うようになりました。
座禅や高僧の話しに耳を傾けるばかりが修行とばかり思いこんでいたが、果たして本当にそうなのだろうか。
老典座僧が、老体でありながら料理長としての務めを果たそうと、今成すべきことを無心に行う姿を見て、実はすべてのことが修行であり、悟りに至る道ではないのか、と思い始めたのです。