人の為に善いことをすると書いて「偽善」と読みます。
なぜ「偽善」かといいますと、人の為に善いことをしているのだから
「感謝して欲しい」
「善い人と思われたい」
「善いことをした自己満足感が欲しい」
という感情が潜んでいるからです。
ですから、私たちができる第一歩は「まず自分をきちんと満たしてあげる」ことなのでしょう。
自分を十分満たした後でも、必ず善きことをしたいという感情は残るといわれています。
この余った分を使ったときに「偽善」は「愛」に変わるといわれています。

みんなが大通りを歩んでいくから、自分もそれについて行こうという生き方を選択している人も多いと思います。
でも、みんなはどこに行くのか、どこに向かっているのかは分かりません。
大通りを行くというのは、そういう意味で自分の人生に責任を持っていませんし、自分の人生になっていません。
大通りを歩いていくことは、難しいことを考える必要がないので非常に楽なのですが、自分の生き方を去勢された状態で歩いていることになります。

「自由」というのは何の指針もありませんし、自分の判断意外に当てにできるものはありません。
マニュアルもなければ、他人との比較もできませんし、前例もありません。
これが「自由」ということの本質で、大変なことなのです。
大通りをみんなで行くのは不自由だけど安全、これが多くの人を大通りに引きつける理由です。
大通りを行く人たちは必ず徒党を組みます。
大通りを行くことに不自然さや窮屈さを無意識に感じているので、それを打ち消しておく必要があるからです。

でも人間は、徒党を組んで死ぬことはできませんし、最後は必ず一人で死んでいきます。
そういうわけで、やはり人間は、どこかで大通りから抜けて、自分なりの道を探して歩んでいかなくてはいけないのでしょう。