自分という船

ふと生まれてきただけの人生に、「意味や」「価値」を求める必要はないのですよ」と禅僧はいいます。
人生とは「自分という船」で、川を渡るようなもの。
「船は川を渡るだけの道具」にすぎないのですと言います。

自分とは、この世に存在するために使わなければいけない船のようなもの。
道具がお役御免になれば、捨ててもかまわないのですと諭します。
「船(肉体)は、乗り捨てる存在なのですよ」ということでしょうか。

人生で最大の仕事と言えば、死ぬことだと言います。
なぜかと言えば、死の正体は誰一人分かっていないからです。
もっともポピュラーな死のイメージは、「この世ではない場所に行く」というものです。
この世とあの世の境に関所のようなものがあり、天国と地獄に振り分けられる、というイメージがあります。
死んだら「千の風」になるという歌も流行りました。
そこには、「肉体は無くなっても自分は続く」、「姿を変えた自分が残る」という錯覚や願望が隠されています。
これは死を解釈しているのではなく、自分たちが死なないように都合よく解釈しているのです。

釈迦は、死後については「死後の世界があるかどうかは分からない。どうなるかも分からない」としか、言い残していません。
「意味」とは、生きている人間が、生きている間に考えることです。
そういう意味では、死とは「無意味」になるということです。

心配はいりません。
特別何かをしなくても、全員死ぬことはできます。
故に禅僧は「死を乗り越えようとしなくてもいいのです」と諭します。
ふと生まれてきただけの人生に、ことさら「意味」や「価値」を求める必要はないと言います。
「ただ毎日を、一生懸命に生きていけばいいのです」と声高に言うのです。