緊張するとは

人は下界の様々な刺激から、過去に起こったことや未来に起こることを想像し、好ましい対象を欲したり(貪)、好ましくない対象を嫌ったり(瞋)、そのこと自体に無自覚だったり(痴)します。
こういった渇愛に、煩悩がまとわりついて執着が形成されるといいます。(無明)

プレゼンや結婚式のスピーチを頼まれて緊張してしまうのは、「みんなにいい所を見せたい」「恥をかきたくない」と考えるうちに、それがさも、人生の進退がかかった大一番として、実体をともなったものであるかのように感じられてしまうからです。
「うまくいくのだろうか?」といった強い不安や緊張感となって、「何としても失敗したくない!」という執着が強まるのです。

仏教では「原因によって生じたものごとは、すべていつかは消えてなくなる」と教えます。
私たちが経験するすべての現象は、原因が寄り集まって起こるものであり、その原因がなくなればすっかり消滅してしまうのです。
今囚われている緊張や不安は、「ほめられたい」「認められたい」という気持ちが、「自信がない」「このチャンスを逃したらもう二度とない」などの感情的な要因に囲まれて高まるものです。
でもこうした不安も、本番が終わればやがて何もなかったかのように消滅するものであり、結局は過ぎ去る「無常」のものと気づきます。
世界が「無常」であることに気づけば、この世の中で実体視するものは何一つなく、あらゆることが寄り集まっては流れ去る現象であると気づきます。

仏教の修行に瞑想がありますが、これは自分の内なる状態、例えば緊張を抑え込もうとするのではなく、ただありのままに「客観視」するものです。
不安で眠れないなら、「不安で眠れない」と確認し、緊張しているなら「緊張している」と確認します。
瞑想するとは、「悩む人」から「悩みを観察する人」になることです。
なぜ、これだけのことで緊張から解放されるかというと、人間の脳には頭の中を客観視する器官が備わっているからだそうです。
瞑想することで、その部位の血流が充実します。
悩んでいる自分を俯瞰するのが瞑想です。