なんとめでたいご臨終 小笠原文雄
「先生、右手が麻痺してきました。舌も右に曲がって話しにくいし、食べづらいです。入院した方がいいんじゃないですか?」
「入院するなら紹介状は書いてあげるよ。でもそれは、ガンの浸潤によるものだし、根岸さんは脳転移の手術や放射線治療はできないから、入院しても意味がないよ。諦めなければいけないときは、諦めなくてはいけないよ。辛いけれどね。今から往診しましょうか?」
その電話の翌日、奥さんがこんなことを話してくれました。
「諦めることはつらいけれど、諦めないと前に進めないよねと、昨晩夫婦で泣き明かしましたら主人が吹っ切れたみたいです」
何の治療のできない絶望感や現実を受け入れることは、本当に辛いと思います。
しかし、真実を知り、覚悟ができた根岸さんは、残された命が同じなら最期まで朗らかに生きたいと決心しました。
ある朝のことでした。
いつものように奥さんが根岸さんの大好きなコーヒーを淹れ、”お父さん、どうかな”と根岸さんの顔を覗き込むと、根岸さんの呼吸が止まっていたのです。
根岸さんはコーヒーの香りを味わいながら、夫婦で最期の時を過ごし、穏やかに旅立たれたのです。
「笑っているような顔だね」
と私が言うと、奥さんが涙ぐみながらも微笑みました。