関大徹 曹洞宗住職の書より
自分は、僧侶として好きなことをやっているのだから、一握りの米も頂けなくなっても誰を恨むでもない。
その時は、心静かに飢え死にすればいい。
高祖以来、みんな、その覚悟があったからこそ今日の禅門があり、禅僧といわれる人は、その祖風にしたって仏門に入ったはずである。
我が身一つ、いつ野垂れ死にしても満足という覚悟でなければ、それは脇目もふらず自分の選んだ道を歩んでいるとは言えず、裏返して言えば、妻子を養うということは、それほど値打ちがあるということになる。
少なくとも男たるもの、男の一途さを放棄せねば妻はめとれぬ、子はもうけられぬ。