いのちの言葉 作詞作曲家 小椋佳
次に、私の家族、私の父母、私の子どもたち、これはどうでしょう。
父母なしでは私はいなかった。
最愛の妻や子供に死なれたら私は生きていられない、という言い方も間違いとはいいません。
けれども、家族の誰かがいなくなったとき、「私」も存在しなくなるでしょうか。
そんなことはありません。
私の肉体の各部分はどうでしょう。
私の手とか、私の足とか、これこそ、私を形成しているものといえそうです。
ただし、たとえば交通事故か何かで手を一本、あるいは足一本切り取られた場合、「私」はなくなるかというと否と言わざるを得ません。
さらに、もっと私自身に近そうなものとして、私の才能、私の性格といったものはどうでしょう。
ピアノ演奏の天才が、何かの事情でピアノを演奏できなくなったとしても、その人は相変わらず「私」であり続けます。
性格はどうでしょう。
私の性格の寄せ集めこそが私自身と言われれば、それも必ずしも否定できなさそうです。
しかし、根っからのいじめっ子の性格を熱血教師が矯正できたとしたらどうでしょう。
そのとき、その子は、私が私でなくなったとはいえても、「私」がいなくなったわけではありません。