生きること、創ること 小椋佳
まずは私の土地、あるいはマイホーム、それこそが我がいのちだと言われる場合があります。
しかし、何らかの事情で土地を手放すとか、引っ越した場合、私は私でなくなるでしょうか。
所有する土地が変わったとしても、私は私で存在しています。
次に、私の家族、私の父母、私の子どもたち、これはどうでしょう。
父母なしでは私はいなかった。
最愛の妻や子供に死なれたら私は生きていられないと言い方も間違いとは言えません。
けれども、家族の誰かがいなくなったとき、私も存在しなくなるでしょうか。
そんなことはありません。
同様に、私の肉体の各部分はどうでしょう。
私の手とか、私の足とか、これこそ私を形成しているものと言えそうです。
ただし、たとえば交通事故か何かで手を1本、あるいは足を1本切り取られた場合、私はなくなるかというと否と言わざるを得ません。
さらに、もっと私自身に近そうなものとして、私の才能、私の性格といったものはどうでしょう。
ピアノ演奏の天才が、ピアノこそ我が人生という場合、異を唱えることはないでしょう。
けれども、何かの事情でピアノが弾けなくなったとしても、その人は相変わらず「私」であり続けます。