いのちの大地に立つ 高史明
私は自分の子供が死んだから、悲しくて念仏を称えていたわけです。
しかし親鸞聖人は、そのような念仏を称えたことがないとおっしゃる。
そしてその理由を尋ねていくと、「一切の生きとし生けるものは命としてみな親兄弟に等しい」とおっしゃるわけです。
悲しみの年数を積み重ねていくうち、この念仏といのち平等の天地が、現代人にとっても大事な教えであることに気づきました。
供養のための念仏は、悲しみをただ自分の癒しの種にしていることと同じです。
念仏とはその自分を覆して、一切の生きとし生けるものが、いのちとしてはみな親兄弟に等しいという、いのちの天地を開く教えです。
まず、そのいのちの大地に向かってあなた自身の歩みを進めなさい、と言われていることに気がついたのです。