生きること、創ること 小椋佳
全能の神への信仰に依存せず、かつ、いのち自体を人間が生産する状況を考えますと、私たちは、いのちの存在意味が自明のものとしてあるという前提のもとで、それを探し出そうとする従来の意味探求のむなしさに思い当たらざるをえません。
つまり、生きていることの意味は、どこかに隠されてあるものとして探しに行くものではなく、自ら創造すべきものとして位置づけるほかはなさそうです。
もちろん、生きていることの意味など、考えなくても人間は生きていけます。
それでも、生きていることに意味を見出せず、自らのいのちをないがしろにする若者は今も後を絶ちません。
いつの時代にも、生きていることの意味を問わずにはいられない人間たちが、相当数存在してきたようです。
僕自身も若いころ、その問題に病的なまでにとらわれて、それこそ自殺まで考えた1人でした。
しかし、いのちというのは実に不思議なものです。
自らのいのちを絶とうとなどと考えている人間が、ちょっとしたケガをします。
すると、出てきた血がかさぶたとなって傷口を覆い、しばらくすると傷は癒され、新しい皮膚がそこにしっかりと形成されます。
つまり、死のうと意識している一方で、別の機能は、必死にその人間を生かそうとしているのです。