死のイメージ

日本人の生老病死 山折哲雄

ある時、生と死を考える研究会に呼ばれて話をしに行ったことがあります。
控室では50~60代のご婦人方が雑談をしておいでになりました。
もし病気で死ぬとしたら、どういう死に方がいいかという問題です。
がんで死ぬのと、ボケて死ぬのと、どちらがいいか、そんな話に発展していきました。
結局「がんで死んだほうがいい」という結論に落ち着いたようでした。
その理由は、がんは最期の最期まで人間らしく死ぬことができますが、ボケた人、アルツハイマーにかかった人は、人格を喪失したような形で最期を迎えることになる。
自分としてはそんな形で最期を迎えることには耐えられないから「死ぬならがんで死んだほうがはるかに人間的だ」と、こういう意見だったと思いますね。

老病と話してきたわけですけれど、やはり最大の問題はいかに死ぬかということですね。
私はかねてから、死ぬときはあるイメージを抱きながら、この世を去りたいと思っております。
例えば、F1カーレースのアイルトン・セナ、この人は最期は事故で亡くなりましたが、何度かグランドチャンピオンを取っています。
セナはレースの直前に、自分がどのようなコースをまわるか、車の軌跡を全部イメージするというんですね。
そして、そのイメージトレーニングに成功したとき、レースに勝つと言っておりました。

かつては、死にゆく人も死んでいった先にどのような世界があるかをきちんとイメージして死の床についた。
たとえば仏教なら浄土という考え方、キリスト教においては天国でしょう。
そのイメージを心に抱くことができた人は、最期の死の床で比較的安らかにこの世からあの世へと自分の体を移していくことができた。
イメージトレーニングができる人は、死の恐怖から比較的免れていたのではないかと思ているんですね。