「手紙屋」 喜多川泰
受験勉強はよく、マラソンに例えられます。
長い道のりを1人孤独に走り切らなければならないからでしょう。
でも私は、マラソンより 駅伝に近いと思うんです。
それまでの走者が必死の思いでつないできたタスキを手に持って走る駅伝、これに近いと思うんです。
勉強するという言葉の意味を考えると、私たちが学んでいることは、かつてこの世に生きた人間が、人生を通じて見つけ出してきた英知を、次の世代へつないできたものの集大成だという話しは覚えていますよね。
その点を考えても、やはりマラソンではなく駅伝なんだなあということが分かると思います。
また、私たちが勉強する権利を手に入れるために、どれだけ長い時代の人々が命をかけて戦ってきたかという事実を考えても、今、タスキを手に走っている私たちの世代が、ちょっとやそっとの理由で途中棄権するわけにはいきません。
すべての人が、自由に勉強できる世の中にしたいと思いながらも、そんな世の中は中々実現しませんでした。
それを手にしたのは、何千年、何万年も続いている人間の歴史の中で、ほんの100年ほど前に過ぎないのです。
この国に住む私たちは、それまでこの世界に生きたすべての人たちの恩恵を受けて、今ようやく誰でも、好きなだけ、先人の知恵や知識を身につけていい権利手にしたわけです。
今もまだ世界には、そういう状態にない国がたくさんあります。
これを私たちの時代で終わりにするわけにはいきません。
だから、その権利も、受け継いだ知恵も、そして自分が勉強して学んだことも、とにかく何もかもを受け取って、そこに自分が生み出した何かを加えて、次の世代につなぐ。
そうして初めて、勉強したと言えるわけです。