「手紙屋」 喜多川泰
あなたは、ナイフという道具を、その便利さと危険性の両方を知ったうえで使っていると思うんです。
その両方を知っているからこそ、他人や自分を不幸にしないですむのです。
ところが勉強という道具はどうでしょうか?
その便利さはある程度知っているかもしれませんが、危険性について考えたことがある人は少ないんじゃないかとも思います。
勉強ができるようになって、できない人を見下すようになる人がいます。
勉強によって手に入れた知識で満足してしまい、それを自らの人生に活かすのではなく、他人を批判するために使う人がいます。
勉強だけに没頭しすぎて、人の気持ちが分からなくなってしまう人、人とコミュニケーションが取れなくなってしまう人もいます。
自国の歴史を勉強することによって、他国を憎むようになる人がいます。
自国の文化を勉強することによって、他国の文化を否定する人もいます。
化学や機械に精通して、多くの人に被害を与えるようなものを作りだす人さえいます。
全部、勉強という道具の使い方を間違えているのです。
そうなることが分かっていても、親は子に「勉強」という道具を持たせたでしょうか?
勉強は「やらないよりは、やった方がいい」というものではないということが分かってもらえたでしょうか。
何のために、勉強という道具を使おうとしているのか。
勉強という道具を正しく使って、自分の人生になくてはならない便利な道具として活用してもらいたいのです。
じゃあ、勉強は何のためにする道具なのでしょうか?