「死に方」は「生き方」 中村仁一
とても大事にしている高価な焼き物があったとします。
ある時、これを家族化友人が過って落として壊したとします。
すると、たいていは怒鳴らないまでも腹の中では、もう少し注意してくれたなら割れずに済んだのにと恨み、割られてしまったと思うに違いありません。
この時、「割られた」と思うか、「割れた」と思うかが分かれ目になります。
命あるものはいつかは死に、形あるものはいつかは消滅するのが道理ですから、サラッと「割れた」と受け取れば、ストレスの度合いは少なくて済むのですが、いつまでも「割られた!割られた!」と考えていると、身体内に歪みができ、やがて高じて体調を崩してしまうのです。
また物事を「かくあらねばならない」とか「こうあるべきでえある」と決めつけてしまうと、非常にストレスが高まることになります。
私たちは、とかく物事を知らず知らずのうちに、自分の都合や世間の常識や尺度などに捉われて差別してみています。
ですから、決してあるがままに受け取っていないのです。
「好きだ、嫌いだ」「損だ、得だ」「正常だ、異常だ」「きれいだ、汚い」などと自分勝手に区別し、その挙句、それに捉われて不自由になっているのです。