一気には辿り着かない

いのちの言葉 作家 高史明

人間とは、他人の老いを見ると、自分の老いが見えなくなる。
他人の死を見ると、自分の死が見えなくなる。
これがお釈迦様のいう「無明」です。
死んだ子供に手を取られて、涙を与えられ、そして、とぼとぼと右往左往しながら生きてきたということは、実がとても大事な日々であったと気づかされました。
私は、苦しいとき、悲しいときにその悲しみを大事に生きてこそ、本当の道が開けてくるように思います。

私の子どもと同じように、死んでいきたいと手紙をくれた方がいました。
長いこと、いつ死ぬかと心配させられましたが、その方が死ぬと言わなくなったときがありました。
そのきっかけとなった手紙が、今思い返されます。

その方が、大学三年生になって、山登りをして頂上に立ち、今歩いてきた道を振り返って、はたと気がついたというんです。
「ここに、どうして立っているのだろうか。それは、二本の足を交互に動かしたから、やっと頂上にたどり着いたんだ。ところが私はこれまで、一気に山の頂上にたどり着こうとしていたのではないか。そう道に教えられた」というようなことを書いておられました。

漱石の主人公が、絶対の境地に至れば、自分の矛盾から解放されると思いながら、その絶対が自分から逃げてしまうと思ったのは、絶対まで一気に辿り着こうとしていたからだろうと思います。