「死に方」は「生き方」 中村仁一
わたしは、「どうせ死ぬならがんがいい」「死ぬのはがんに限る」と言い続け、本にも書いてきました。
なぜ、がんで死ぬのがいいかと言いますと2つ理由があります。
1つは、残務整理の期間があることです。
人はみんな、いずれいつか死ぬとは思っています。
しかし、それはまだ先のことと思っているのが常です。
がんの場合は、死ぬ時期が近未来に確定したことを意味します。
それまで時間がありますので、立つ鳥跡を濁さずで身辺整理ができるというわけです。
もう1つは、親しい関係を結んだ人、お世話になった人たちに、お礼とお別れをいってサヨナラができることです。
ポックリ死は、何もする時間がありません。
寝たきりではいつ死ねるかも分かりませんし、ボケたのではどうしようもありません。
こんな結構なことはないと思うのですが、なかなか賛同してもらえません。
思うに、嫌われる原因んは、がんは必ずのたうち回るほど強烈な痛みで苦しむと受け取られているせいのようです。
たしかに、病院勤務時代に担当した患者は痛みで苦しんでいました。
進行がんであろうが末期がんであろうが、医者のなりたての頃は指導医のもと、亡くなる当日まで抗がん剤を打ち続けました。
患者は治りたいと思い、家族は治したいと思うからこそ、入院させているのです。
治療しないわけにはいきません。
負け戦はわかりきっています。
苦痛は患者持ちと割り切るしかありませんでした。そしてむなしさだけが残りました。
がんに対する見方が変わるきっかけになったのは、今から30年ほど前の経験です。
50歳代前半の看護師が胆のうがんになり、別の病院で手術をしましたが取り切れず、勤め先の私どもの病院へ戻ってきました。
抗がん剤を打った患者を見ていたせいでしょうか、抗がん剤は拒否しました。
全く痛みは出なかったのですが、食が進まず、アイスクリームを食べる程度でしたから、日に日に痩せていきました。
本人が点滴注射も拒否していましたから、治療らしきものは何もしていません。
このケースで教えられたのは、がんでも積極的に攻撃的な治療をしなければ、痛みに苦しまないこともあるということです。