いのちの大地に立つ 高史明
人間は「生きること」と「いのち」という言葉を一緒に考えている、唯一の存在だと言っていいかと思います。
にもかかわらず、私たちは日常生活の中で、そのことをあまり深く考えないのではないでしょうか。
そして、いのちが危機に襲われたとき、はじめて生きること、いのちということを考えるのではないかと思います。
正岡子規は、病気の苦しみのどん底で、いのちについてどのように考えたのかを書いています。
「死ぬることもできねば、殺してくれる者もいない」と言います。
「1日の苦しみは夜に入ってやうやう減じ、僅かに眠気さした時にはその日の苦痛が終わると共に、はや翌朝寝起きの苦痛が思いやられる。寝起きほど苦しい時はないのである。誰かこの苦を助けてくれる者はあるまいか。誰かこの苦を助けてくれる者はあるまいか」
私もその叫びを上げたことがありました。
最愛の子供が死んだ夜でございます。
その日、いつもは夕方には帰る子供が帰らなかった。
不意に不安を覚えたときです。
警察から電話がありました。
胸騒ぎを抑えて駆け付けると、すでに子供は息をしない身となっていました。
何が起きたのかよく分からない。
しかし、やがて深い悲しみに気づきました。
目が覚めることが恐ろしいのです。
目が覚めた瞬間が苦しいのです。
それこそまさに、いのちをどう思っているかを真正面から問いかけられることでした。