生きること、創ること 小椋佳
性格はどうでしょう。それも必ずしも否定できなさそうです。
しかし、たとえば根っから意地悪ないじめっ子の性格を熱血教師が矯正できたとしたらどうでしょうか。
そのとき、その子は私が私でなくなったとは言えても、私がいなくなったとは言えません。
そして最後に記憶を取り上げてみましょう。
1人の人間が自分と他者とを区別し、ほかでもない自分を認識するのは記憶のおかげだと言われます。
極論すれば、私とは私の記憶の集合体であるということです。
しかしこれも厳密に考えてみれば、その人間の過去がすべて記憶されているわけではありません。
また覚えていたはずの何らかの思い出が欠落したとても、その人はその人として存在します。
となると、記憶もその人そのものではないと言えそうです。
以上、自分探しについて述べてきましたが、要するに、それは玉ねぎの皮むきのようなものだと言いたかったのです。
私とは探し当てるものではなく、自ら規定すべきもの、あるいは自ら創造するものと言えるのだと思われるのです。
いうならば、いのちは本来、私自身を不断に創造していくものと考えられるのです。