親の劣等感

悩みの原因の1つに、現実の自分を否定することに起因するものがあります。

背が低い、太っている、学歴がないなど「こうであって欲しい」という価値との乖離です。
悩んでいる人が20歳そこそこの若者ならまだいいのですが、分別のつく年齢になってもこうしたことで悩んでいるとしたら、フランクルの言葉を借りれば「視野が狭い人」となります。

果物の世界で「りんごよりミカン」の方が価値があるという偏見があると仮定してみます。
親は子供に向かって「りんごは嫌だなあ。おまえも早くミカンになりなさい」と言います。
子供は、自分が「りんご」であることに劣等感を持ち、必死で「ミカン」になろうと辛い努力をします。
もちろん子供は、自分の親は「ミカン」だと思っています。
しかし実は、親は「りんご」だったのです。
親自身、自分が「りんご」であることに劣等感をもっています。
親は「ミカン」のふりを必死でしているのです。
だから「りんご」である子供に「早くミカンになれ」ときつく言うのです。

そこで子供はつらい努力を重ね、親に向かって「ぼくは、ミカンになりつつあります」と叫びます。
でも親は決して、子供が「ミカン」に成長していくことを認めません。
なぜなら、認めてしまったら子供を激しく責められなくなってしまうからです。
親は自分の劣等感を解決するために「りんご」である子供を苛もうとします。
そして、自分が望むように成功できなかった劣等感を、子供に高すぎる希望を課すことで解消しようとします。

それは、子供に「エジソンのような発明家になれ」と言うことで、自分の偉さを誇示していることと同様なのです。