覚悟

「やりたいこと」に執着しないで、「誰かに喜んでもらえるかもしれない」と思えることをやっていきますと、「やるべきことをやり終えた!」と納得でき、満足した人生の最期を迎えることができると僧侶は言います。

人はいつか死ぬと誰もが知っています。
しかし「自分が死ぬ」、そう実感したときに、人は初めて死への恐怖と直面します。
でも、「死」そのものをいくら考えても分かりません。
だれも経験したことがないからです。
考えるべきは、「自分の内面」です。
死への恐怖を乗り越えようとするのではなく、「怖がっている自分自身を消す」のです。
自分自身を消すとは、「死を受け入れる」ということです。
死を受容するには、「自分を開いておく」ことです。
自分を開くとは、「もう自分を大切にしない」ということです。
それは、どういう意味かといえば、損得勘定抜きで「自分のため」ではなく、「人のため」に行動していくということです。

僧侶曰く、60歳を過ぎたら基本的には「もう、いなくていい人」ですと。
普通に考えれば、60歳を過ぎれば子供は独立していますし、親の手はいりません。
また、定年で現役を引退すれば、仕事で期待されることも少なくなります。
そう、覚悟した方が賢明だということです。
そうなると、ますます「自分」や「自分の人生」を大切にする必要はなくなります。
ならば、自分を勘定から外して、まず他人を立てていこうということになります。

要は、身の丈にあったことを、できる範囲でやっていけばいいのだと言います。
「ゴミを拾って歩く」とか、「ちょっと人助けをする」、「こうすれば人が喜ぶかもしれない」と思うことや、「すぐできるこ」とをやってみるのです。

歳を重ねて体力も衰えてきたとき「そろそろ、自分の人生も店じまいだな」と身を引き、「まあ、やるべきことはやり終えたかな」「自分の人生はこんなものだろう」と、妙に納得できる感覚が、死を受容するということなのでしょうか。