自分はなんのために生まれてきたのだろう?

「手紙屋」 喜多川泰

この難しい質問を、自分に投げかけている人がたくさんいます。
「自分はなんのために存在するのだろう?」
若い人は、この問いについてよく悩みます。
自分の人生の意義について見出すことが難しいからです。
自分を磨いて、何かの役に立つ形をつくるまでは、自分の存在する意味を見つけるのは非常に難しいことなのです。

自らを磨いて、何かの役に立てたときに初めて、人生に意味が生まれたと自覚できます。
初めから意味が分かるから、それに向かって生きていくのではありません。
自分の人生に意味があることを自覚したければ、自分を磨いて、形を変えて意味を持たせるしかないのです。

勉強している若者というのは、まだ何の役に立っていない1本の木を削ったり、磨いたり、形を変えたりして、何かの意味を自分に与えようとしているわけです。
そうすると、削っている途中で迷いが生じます。
「自分という材料はほんとうにこの削り方でいいのだろうか?」
すごいものを作ろうとすればするほど、作るのが難しいですから、途中でへこたれるわけです。
そして考えます。
「自分が作りたいものは、本当にこれでいいのだろうか?」ってね。
で、途中でやめてしまう。
その結果、何の役に立てるか決められない状態に戻って、また迷うわけです。
「自分はなんのために生まれてきたんだろう?」ってね。