今日を生きる

良寛が自分の生きざまと所信を述べた漢詩があります。
その中に、こんな詩があります。

生まれてこのかた、立身出世にはトンと気がすすまず、自然のままにふるまっておる。
頭陀袋の中には米が3升あるし、炉端には薪が一束ある。
暮らし向きはこれで十分だ。
誰が迷いだとか悟りだのに捉われた昔の人の跡を求める必要などあろうか。
また、どうして名誉や利益といったこの世の煩わしいことに関ろうか。
雨の降る夜は、庵の中で両足を思いのまま伸ばして過ごすばかりだ。

勝ち組とか負け組とか、陰険な出世競争や利益競争にうつつを抜かしても、やがては定年となり、その戦列から去らなくてはなりません。
後で顧みて、何と虚しいことに夢中になっていたかと気づいても遅いのです。
ギリシャの哲人セネカは「生きることの最大の障害は、期待を持つことである。それは、明日に依存して今日を失うことである」と言っています。
このような曖昧な期待のために、現に「手元にある確かなものを放棄し、不確定なものを追っている!」と言っているのです。