今度生まれてくるときも手無しで生まれてきたい

人のご縁ででっかく生きろ 中村文昭

五体満足で生まれて当然と、たくさんの人が思っています。
しかし、手を失ったり目が見えなくなったりすると、初めてそのありがたみに気がつくとも、よく言われます。

明治時代、大阪道頓堀の寿司屋の娘に生まれ、踊りの名取になるなど幸せな日々を送りながら、ある日、酒乱の養父による一家惨殺の凶行に巻き込まれ、16歳の娘盛りに両手を切り落とされて、家族の中でただ一人生き残った女性がいました。
彼女はカナリアがくちばしで餌をついばんで雛を育てるのに感動し、「手が無くなったってできることはいっぱいある」と、口に筆をくわえて、書画を描くようになりました。

彼女は、献身的な治療で命を取り留めたものの、家族を失って絶望の果てに、尼になろうと尼寺を訪ねます。
ところが「尼は寺から逃げればいつでもやめられるが、母親はやめることができない。尼になりたければ、その前に母親になりなさい」と諭されます。
そして艱難辛苦の末、結婚し2人の子どもを育て上げます。
やがて仏門に入り、「心の身障者になってはいけない」と、多くの身障者救済のために生涯をささげられたのです。
その方が80歳で亡くなる少し前に、「今、望まれることは?」と尋ねると「3つの願いがある」と答えたといいます。
1つは、弘法大師と同じ日に死にたい、もう1つは、死んだらすぐにあの世へは行かず、人が三途の川を渡るお手伝いをしたいというものです。
そして、3つめの願いを読んだとき、僕はあまりの衝撃に絶句しました。
「もしも、もう一度命を与えていただいたら、私は両腕なしで生まれてきたい」そう、答えたというのです。

手があれば嫌な欲が出てくるでしょう。
だから、やっぱり手無しで生まれてきたい、そうきっぱり語ったそうです。