「自我」

「自我」そのものは錯覚だという視点で「自我」が生まれるシステムを考えてみます。

どこかが痛いとしましょう。
それは「私」が痛いのではなく、まず痛いところに痛いという感覚が沸き起こっているだけ、という事実です。
そこに後から「私」が割り込んできて「ああ、私は痛いんだ」と思うわけです。

誰かの話しを聞いて、腹が立つのも同じです。
実際に起こっている現象は「耳で音を感じている」だけのことです。
それを脳で解釈し「私」は怒っている、としてしまうのです。
怒っている「私」は、後から割り込んできたのです。

「自我」は錯覚なのだという視点で考えると、人間は怒る必要はなくなります。

「自我」は錯覚していても、それでも人のために行動している人がいます。そういう人に触れると、何てありがたいのだろうと思えます。それが「感謝」です。

「自我」は錯覚なのだから、威張る必要なないのだと気づきます。これが「謙虚」です。