「わたし」って何もの?

ちょっと考えて見ましょう。
毎日意識している「わたし」って何なのでしょう?
一生懸命「わたし」を探してみますが、増々「わたし」の存在が何だか分かりません。
からだが痛いと感じるから、わたしって「からだ」のこと?
ちょっと違うような気がします。
では、わたしは考えるから「わたし」って脳のこと?
でも目を閉じて「わたし」を探してみますが、頭の中では「わたし」が見つかりません。
なぜなら、「わたし」が考えていることとは全く別のことを、次から次へ、テレビのチャンネルを変えるように「わたし」以外の誰かが「勝手におしゃべり」をしているからです。
たった数秒ですら「わたし」は、頭の中の「勝手なおしゃべり」を制御することができません。
では「わたし」はどこにいるのでしょう?

毎日こんなに「わたし」を意識して大事に思っているのに、「わたし」の正体を掴むことはできません。
それなのに「わたしの心」というように、「心」を「わたし」の所有物のように感じてしまうのは一体なぜでしょう。

チベット仏教では「すべての人の幸せを祈る」そうです。
「自分」のことは祈りません。
なぜなら、「すべての人の中に自分が含まれる」からです。
そもそも「わたし」などというものは「存在しない」と考えれば、「すべての人たち」の幸せを願うことで「すべての一部分」である「わたし」の幸せを願うことになるのです。

ちなみに、チベットの人が「長生きがしたい」と願うのは、「長生きして一人でも多くの人を助けたいから」ということなのです。
チベットの人は「善いこと」をしないで死ぬことが、一番こわいことだと考えているそうです。